ありがとう、平成。
みなさまにとって平成はどんな時代でしたか?
いい機会なので私の平成を振り返ってみました。

書いていたら永くなったので、プライベート編、パステル編万華鏡編になってしまいました。

私的”平成”を振り返る…プライベート編

平成の31年間。
社会・世界的には災害や環境の変化は懸念されるところですが、戦争がないという点でとても良い時代でした(日本では、という制約つきですが)。
ご存じのようにIT産業の進化が目につきますね。

平成は私にとって子育ての時代でした

個人的には1987年(昭和62年=平成が始まる前の年)に第一子の息子が生まれました。
3人の子どもがいますので、私の平成のほとんどは子育てでした。専業主婦もしましたが、確実に家事には向いていません!!(笑)
派遣で働いたり、自宅のパソコンで文字入力の仕事をしていました(いまでいう在宅ワーク)。
その後、大学の事務員として13数年を勤めました。その日々は楽しいものでしたが、母の介護を機に退職しました。
介護休暇も取れるからと引き留めていただきましたが、定年までいるイメージを持てなかったので、いい機会だととらえ退職したのです。

社会活動に燃えた

同時に被爆体験に関する聞き書き平和活動、Big ,issueという雑誌を通してホームレス支援にもかかわったりして、忙しくしているのが好きでした。
今思うと、何か現実から逃げて好きなことをしていたかったのでしょうね。社会のため、人のために何かできる事があるんじゃないか、そんなことを感じて探す時代って人生にはあるものです。
仕事やボランティアで得た経験は、たくさんあります。被爆者を助けたお医者さま、学者といわれる方からホームレス、さまざまな人たちに会えたことは貴重です。社会的ステータスはどうであれ、人は「生き方」「在り方」が大事なんだなぁと実感しました。

亡くなって三年、やっと好きになれた母

同居していた母の介護、そして別れ。
亡くなって3年。やっと最近、母のことが好きになりました。
(先日TVで米倉涼子さんがお父様の事をそう言ってて、「私も同じ!そんなこと言っていいのね!」と嬉しくなったので言います笑)。

私は父を早くに亡くしたので母一人子一人で育ててもらったのですが、なにぜ昭和ヒトケタ生まれの母、革新派(?)の私とは合うはずもありません。「一生好きになれない」と真剣に思っていましたが、今は母の愛がわかります。

介護は反省だらけ

同居していたので介護も経験しましたが、いまでは反省点ばかりです。乳がん、大腸がん、脳梗塞、心筋梗塞、糖尿病、高血圧、骨折4回の母の介護をひとりでするのは、簡単なことではありませんでした。

福祉のこともわからないことだらけでした。私は母が34歳の時に生まれた子どもでしたので、同世代の友人はまだ介護の世代になっていませんでした。年齢が上の知人や友人をみつけてはよく相談していました。幸運なことに私はたくさんの年齢と優しい友人がいたなぁと有難く思うのです。

プライベートではさまざまなこともあったので、ボランティアで他人のことはできても、自分自身のことに関してはブレーキばかりかけていました。大人になってアトピーも発症し、仕事を休んだこともあるくらいでした。今でも春は肌の調子が悪いです。

実は私…ヒプノセラピストだったんです

アトピーと心の闇から、かなり心理学を学びました。色彩心理やカラーセラピーを学び、表現アートも経験しました。
あれもこれもと学んだのは、やはり自分のなかで解決できないなにかがあったからです。その頃はなりたいものや夢などありませんでした。表面では強くいながら、内面が弱く自己の確立がまだできていませんでした。
交流分析士は一級を取得、またヒプノセラピーを本格的に学び、セラピストとして仕事を始めました。でもそのことに自分で違和感も感じていました。同時にヒプノセラピーの師匠との人間関係で悩み、足を洗いました。

パステルとの出会い

ヒプノの師匠との人間関係で悩んでいたころ、パステルに出会いました。
それは2011年の春、東北大震災が起きた直後だったと思います。一緒に心理学を学んだ友人が「パステルという絵を習って資格を取る」と言っていたので、「そういえば小さい頃は絵を描くのが好きだったな~、私も行ってみよう!」という軽い気持ちで一緒に行きました。
そこで運命の出会い…という感じではありません(笑)。へぇ、おもしろいね。という感じでした。ただ幼いころは紙と鉛筆があれば楽しくて、学生時代には歴史の教科書にパラパラ漫画を描いていた自分のルーツを思い出しました。

ちょっと話が昭和に戻ります。

私が9歳のころ、池田理代子先生の「ベルサイユのばら」の連載が週刊マーガレットで始まりました。

ちょうどそのころ父が病気になり、胃がん末期と宣告されました。当時はガンにたいする医学も進んでおらず、父は結核病棟のまま死を待つばかりでした。母は付き添いで病院に泊まり、私は親戚のお宅へ預けられました。

一人っ子の私は、寂しいだろうとたくさんの漫画を買ってもらえました。なかでも「ベルサイユのばら」は私を夢中にさせました。
マリー・アントワネットのドレスを描くことが大好きで、いつも真似をして描いていました。紙と鉛筆があればいつでも楽しくひとりで遊んでいました。どこか見えない世界に存在しているものを、紙の上に表現しているのだと感じていました。

さて父の病状はひどくなっていきました。私は10歳だったのであまり面会には行けませんでした。
現代だったらペインクリニックなど痛みにたいする医学やモルヒネなどの薬もありますが、当時はそんなものはありません。父の最期は苦しみだけだったことは、死への恐怖として私の心に残りました。

私は周りの状況を見て「悲しんで母親を心配させてはいけない」「我慢をしなければいけない」
そんな考えが意識のなかに残り、父の葬式に来る人たちに明るい笑顔を見せていたことを思い出します。

つらい思い出の父のことを封印し、性格の合わない母と二人の生活。
私の意識が内よりも外での楽しさに向けられるのはそんな過去があるからかもしれません。

2014年にはインドのアシュラムでのアートセラピーに2週間参加したときの過去への目覚めは強烈でした。

↑屋外で開催されたアートセラピーの中で描いた死と再生。

現地には友人がいたものの、一人でインドに行くことは私にとっては大きなチャレンジでした。
空港から現地へいくまでの夜中のタクシー内の5時間はひどかった、でも何もかもが私に大きな気づきをもたらしてくれました。

旅やチャレンジは、いつも大きな変化をもたらしてくれます。
知らない場所に行く、未来がどうなるかわからないことをやってみる、ということは不安が生まれるものです。その不安をぬぐい、自分を信じ、安全の殻を破ってみようとする時、可能性がうまれます。その人がより大きく成長していくという可能性です。

「大きなことをするのは難しい」という方は、小さなことから始めてもいいと思います。
いつもと違う道を通る、知らない人と会話をしてみる、新しい食材で料理をしてみる、模様替えや引っ越しもそうです。
与えられたものだけでなく、自分から掴もうとするとき、何かが動いていきます。

いつの間にか子どもも巣立ち…

私は22歳で結婚して23歳で子どもを産みました。早くに結婚したので「青春なかったー!バブルなかったー!」と思っていました。
なので子どもたちには「ゆっくり結婚したらいいんじゃなーい?」と言っていましたが、思うようにはいかないのが子どもです(笑)。
みんな早々に結婚し、いまでは孫が3人。まだまだ若い気でいたので信じられません!
孫の事は「た孫っち」、「私の事はバーバラと呼んでね」と言ってます(笑)。

旅するパステル

平成には何度か旅行をしました。子育ても終え、特にお勤めを辞めてからは自由に時間が取れるようになりました。

2006年、平和をめぐる沖縄の旅(沖縄戦跡めぐりと辺野古でビラ配りも)
2007年、一人でニューヨーク。現地で友人と。
2015年、戦時中に母が住んでいた上海に、日本人街の面影を求めて。
2016年、友人とマレーシアのペナン島へ。2日前までは名前も知らなかったランカウイ島への突然のフライト。
2017年、アメリカの友人たちとセドナへ。
アパッチの聖地で受け取ったメッセージ「累々と続く魂の、その代表としていまあなたはそこにいる」
2018年、結晶の花アートアカデミーの石丸留美さんオーストラリアへ。
韓国も何度も行ったな。

令和にも、また海を越え、大好きな飛行機に乗っていきたいなー♪(^ ^)

よろしくね令和

昭和の時代の世界は、近くでの濃い世界で封建的な部分がありました。
平成はITとともに精神性も進化し、私たち一人一人が可能性に目覚める時を迎えました。
令和が一人一人が尊重され、もっと輝いていく時代になるでしょう。

レイは霊性ということかもしれません。
または0(ゼロ)、調和・安定としての〇です。和も〇なので、〇がふたつでなんですね!

色んな出来事があるでしょう。ただただ人々の魂がより高き方向へ向かうことを祈ります。

明日からは、初めまして令和。よろしくね令和。